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奈良街道 (京都府)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

奈良街道(ならかいどう)は、奈良大和国)へと至る街道の汎称であり、京都府山城国)内においては、歴史的経緯からいくつかの経路が存在する。なお、京都から伏見を経て奈良へ至る街道は、「大和街道」とも呼ばれる。奈良側からは「京街道」ともいうが、大和国(奈良県)内の道のりが短いこともあり一般的ではない。

変遷

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原形は北陸道から平城京に向かう古代官道(逢坂関を越えてから山科盆地を南に下ったあと、宇治川右岸を上り宇治を経由して奈良へ)。平安京遷都後も奈良へ向かう際は巨椋池を避け、深草大亀谷~六地蔵~宇治経由の道(現在のJR奈良線とほぼ並行)がとられた。

秀吉伏見城築城によって宇治川が改修され、伏見から対岸の向島に渡り、小倉堤上の道を抜ける街道が整備され、大和街道と呼ばれるようになった。

その後昭和初期に巨椋池が干拓され、観月橋から巨椋池の二の丸池であったところを国道が通され、京都と奈良の幹線道路の役割を担うようになった。

近年では、京都と奈良をつなぐ国道24号に奈良街道という愛称が付されている。

「奈良街道」と「大和街道」の使われ方の違い

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奈良街道と大和街道は、いずれも奈良(大和国)に向かう街道を指す名称であるが、京都府内では、この「奈良街道」と「大和街道」は違いを持ちながら使われている。

明治時代の京都府令によると、京都から伏見街道(後に京都・伏見間の経路は竹田街道に変わる)を通り、伏見を経て、巨椋池の小倉堤上を通り、木津川を泉大橋で渡り大和国境に至る道を大和街道、深草墨染交差点から伏見街道と分岐し、大亀谷を通り八科峠を越え六地蔵に至り、宇治川右岸を通り宇治を経て大久保で大和街道と合流、相楽郡棚倉村(現在の木津川市)で大和街道と分岐し木津川を渡り相楽村を経て大和国境に至る道を郡山街道としている。 後に、東海道の髭茶屋追分から山科盆地を南下し六地蔵に至り、そこから宇治川右岸を通って伏見観月橋で大和街道と合流する道を奈良街道として加えている。

現在では京都・奈良間の街道を指す汎称として「奈良街道」という呼称が用いられるが、小倉堤上に築かれたバイパス部分を指して言う場合は、かつての呼称からもっぱら「大和街道」と呼ばれる。また、奈良街道という名称は京都と奈良をつなぐ幹線道路の愛称として現役の幹線道路にも用いられているが、大和街道は歴史的な旧道を示すものとしての認識が強い。

なお、京都中心部と奈良をつなぐ幹線道路である国道24号に対して、現在奈良街道という愛称が与えられているが、京都市内(京都・伏見間)では、奈良街道という名称はほとんど用いられない。これはその経路にある伏見は、奈良方面だけでなくかつては大阪方面への陸路・水路の玄関口でもあったこと、また、現在の国道24号の経路は竹田街道という名称が根付いているためである。京都市内には山科盆地内に奈良街道という愛称を持つ道路があり混同を避けるためともいえよう。

奈良街道または大和街道と称される区間

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以下が京都府内で奈良街道・大和街道と呼ばれる。

大和街道(小倉堤上の道)

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伏見から豊後橋(現在の観月橋)で宇治川を渡り、巨椋池(二の丸池と大池の間)に築かれた小倉堤の堤上を進み、西目川、槇島を経て、小倉からは直線的に南下して大久保で宇治からの道と合流し、奈良へと続く。

豊臣秀吉は、伏見に移るにあたり、巨椋池に新しい堤(小倉堤)を作り、新しく伏見と奈良の間に新道を開いた。この新道をこの時から大和街道と称することとなった[1]

明治時代には、京都から伏見街道(後に竹田街道)を経て伏見までの区間もあわせ、奈良県境までが大和街道と位置付けられた。

現在は、京都・奈良間をつなぐ街道として「奈良街道」、あるいは、京都・奈良間をつなぐかつての幹線道路として「旧奈良街道」と呼ばれることもあるが、観月橋から大久保までの区間は、江戸時代から明治時代に掛けての呼称である「大和街道」と言われることが多い。 小倉堤は巨椋池干拓とその後の宅地開発に際し切り崩されたが、西目川や槇島で一部地盤が高くなっている部分が残されている。

山科盆地内(髭茶屋追分から六地蔵)

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東海道の髭茶屋追分で三条大橋への道と分かれ南西へ進み、大宅、小野、醍醐を経て、六地蔵に達する。明治時代には、前記区間と六地蔵から宇治川右岸を下り観月橋までを含めた区間が「奈良街道」と位置付けられた。

大宅より南では直線上に新道が敷設されており、現在はこちらが「奈良街道」、旧道部が「旧奈良街道」と称される。

髭茶屋追分から小野付近までは、大坂へと向かうかつての東海道延長部(東海道五十七次)の一部でもある。東海道は、小野付近で分岐し勧修寺、大岩街道を経て伏見へと続く。

巨椋池東岸(六地蔵から宇治を経て大久保へ)

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六地蔵(あるいは西の観月橋付近)から木幡、宇治を経て、宇治橋を渡り、大久保で小倉堤上を南下してきた大和街道と合流する。明治時代には、墨染から深草大亀谷、八科峠を経て六地蔵までの道(墨染通)とあわせて、「郡山街道」の一部として位置付けられた。現在は、郡山街道と呼ばれることは無く、奈良へ通じる街道として「奈良街道」と呼ばれる。

六地蔵・宇治間では山側に新道が敷設されている。

脚注

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  1. ^ 大和街道の名は、巨椋池中に小倉堤を通し新道を開いた時が最初で、従来奈良への道は大和路と称し、鴨川東岸から大亀谷・六地蔵・宇治を結ぶ街道であった。(『京都大事典』 (1984), p. 938, 「大和街道」)

参考文献

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  • 佐和隆研奈良本辰也吉田光邦他 編『京都大事典』淡交社、1984年。ISBN 4-473-00885-1 

関連項目

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